2020
今思うとこっちはマジ
「地獄 2」
目眩がして、降りようとした階段の上で足元がふらついた。
危うく頭から池につっこみそうになり、俺の手首を縛った縄を引いていた獄卒は、乱暴にその縄を引いた。
「こんなの嘘だろう。ありえないだろう。こんなことで地獄送りになるなんて、信じられない」
涙がぽたぽたとこぼれた。自分の人生を振り返ると決して自慢できた行いばかりでは無かったけれど、それでも、地獄に落ちなければいけない理由が、口淫が好きだからなんて。
納得がいかなかった。それくらいならむしろ、女を騙して金を貢がせたとか、気にいらないとひっぱたいたとか、女を不幸にしたことを罵られたほうが理解できる。
多くの子どもの可能性を無駄に女に喰わせた。鬼はそう宣言した。
多くって、それが精子なら、一回の射精で一億って数だ。けれど、セックスしたってそのほとんどが卵子に到達する競争過程で打ち負かされてしまうはずだ。しかも、たいていは、そういう競争をするチャンスすら無く、行き着く先は、結んで捨てられるゴム溜まりの中だ。子どもを作るための交合なんて、選ばれたカップルのほんの一時期だけ。現代じゃほとんどまれになってしまっている。もちろん俺も、俺の子どもを産みたいなんて女に出会う幸運なんか訪れはしなかった。
男なら誰だって知っている。一生のうち作り出す精子のほとんどは、女の子宮の中じゃなく、次の瞬間はゴミ箱に捨てられるティッシュに拭われるか、トイレに流されるかしてしまうものだってことは。
足元を確かめながら、促されるままに黒い石の階段を降りていく。階段は途中から池の中に消えていき、意識は本能的に先へ進むのをためらうが、後ろから来る獄卒が今度は後退るのを許してくれない。
覚悟を決めて、階段を降り続け、池の中に身体を沈めた。顔が沈む時の恐怖は、生きていたときの残滓なのだろうか。肺の中に水が流れ込み、身体のすべてが池に沈むまでが一番苦しく、身体はもがきながら水面に浮上しようとした。だが、手首の縄はびくともせず、浮いた身体も縄に引かれてなすすべもない。肺がいくばくかの大きな泡を吐き出すと、やがて、身体はゆっくりと沈み始めた。
先程足が離れた階段の角を足で探る。あと一、二段降りると、歩く度に砂が湧き上がる池の底だった。
池の底は、すべてが緑色に霞んでいて、足も腕も重く、一歩一歩がゆっくりとしか動けない。時々銀色の腹をきらめかせながら、ついっと肩をかすめるように泳いでいく黒い魚は、人を恐れず馴れ馴れしく身体を寄せてくるのが不気味だった。
最初は、昆布だと思った遠くの方に揺れている黒い影は、足を繋がれている人間たちだった。顔を歪め、苦しみに、うおううおう、呻いている。進むに連れ、地の底を這うように低い呻き声は四方から押し寄せてくるようになり、これから、どんな目に合わせられるのかを思うと、膝は笑い、その場にしゃがみこみそうだった。
老婆はその並ぶ人柱の奥に待っていた。黒い布を頭から被って、皺だらけの顔と手をその影に隠している。あまりにも皺くちゃで人相すらもはっきりしなかった。獄卒から俺を縛る縄を渡されると、その顔が少し微笑むのが見えるような気がした。それからその小さな老婆は、地中から生えている足枷のところに俺を連れて行くと、両足を少し離してそこへ繋いだ。
想像していたよりもずっと滑らかで優しい手がゆっくりと足首を握り、反対の手がしっかりと足首に新たな枷を巻き付けていく。両足が池底に捕らわれると、どういう訳か足が浮き上がりゆらゆらと揺れる昆布の群れに加わった。
それから老婆は、俺の来ていた服を細いカミソリのようなもので切り開き、俺を素裸に剥いた。切り裂かれた服は、老婆が手を離すとゆらゆらと池面に向かって漂っていった。次に手首の縄も切られ、それもすぐに漂っていった。
次に老婆は、地面から駕籠を持ち上げると、そこに山盛りに盛ってある丸いものをひとつ持ち上げてみせた。半透明で丸く卵の殻のように滑らかな表面に僅かな凹凸が影をなしていた。
さっきの魚が老婆の肩をかすめ、それが、この魚の卵だということを教えてくれる。魚たちは揺れる人柱の足元に置かれている駕籠の中にせっせと卵を産み付けていたのだった。
老婆が身振りで口を開けるように示した。池の中では、はっきりとした言葉を喋ることが出来ないのかもしれない。俺が口を開けると、老婆はその口に、さっき示した卵を押し込んだ。
うえっと喉がえずき、身体が飲み込むことを拒否した。卵は、固く丸く、どうやったって喉を通りそうにない大きさだ。だが、老婆は次の卵をその上にまた、押し込んでこようとする。池の中にいるのに冷や汗が吹き出すのが分かった。必死になってどうにか卵を喉の奥へ奥へと送り込もうとした。早く飲み込めと言うように、肩へ、魚が次から次へと頭をぶつけてくる。
口を閉じないとうまく飲み込めない。俺はもがきながら、目で老婆に訴えたが、老婆は優しく微笑みながら、また、次の卵を喉奥に押し込んで来た。籠いっぱいの卵が俺の腹の中に納まるまで、おれは、のたくりけいれんし、げえげえ言いながら、努力を続けなければいけなかった。
老婆は、空になった駕籠を俺の足元に置いた。すると、思ったとおりさっきの魚がヒレを振りながらその籠の傍に寄る。足の下で何が行われているのかは分からないけれど、遠くを見れば、少しずつ増えていく卵の上で、みなが苦しんでいる様が見えた。
老婆は、一仕事終えたとうなずくと、ゆっくりと水の中を俺から離れていった。次の誰かの山盛りになった駕籠を見つけに行ったのだろう。
硬い卵が身体の中をゆっくりと下がっていくのが分かる。くねくねと長い道のりを自分の存在を主張しながら。挿しこむような痛みが起きて、腹をかばおうとくの字に身体を捻った。涙はずっと止まらなかったけれど、池の水に溶けていくばかりだった。身の不運を誰かに訴えることも出来ない。
運命がこの先どうなるのかは、向こう側で苦痛に揺れている他の者の身体を見れば分かった。やがて腹を通って来た魚の卵を、それが通過する度に顔を歪めてうんうんと唸りながら産み落とすしか無いのだ。産み落とされた卵は池の底に落ちると粉々に砕け、その中から一匹の稚魚が産まれ出ていく。
どうして。俺は、俺のものを喉に突き立てた女たちの苦痛と陶酔の表情を思い出しながら、身悶えた。どうして、許されないんだ。確かに嫌がっている女もいた。でも、喜んでいる女だっていたじゃないか。傷つけられ、飲み込めない、食事が出来ないと言いながらも、次も諾々と俺のものを受け入れていた女もいたじゃないか。
ただしゃぶらせるだけじゃなく、自由にしたのがいけなかったのか。髪をつかみ、喉を思うさま突いたのがいけなかったのか。あの白濁の中に自分の子どもたちがいたというのか。そんなはずがあるか。そんなはずがあるはずもない。だって、俺には一度も、ただの一度でも、家庭を作る機会なんてなかった。そんな人生じゃなかったじゃないか。
だけど、それを選んだのは自分だった。どこかの曲がり角で、何番目かの女で、ちゃんと選んでいたら……。辛い坂道を真面目に登っていたら、こんなことにはならなかったと鬼は言いたいのだろう。だけど、イラマチオが好きだったのだからしょうがない。この結末を我が身で味あわない限り、現世の俺は、何度やり直してもそれをやめられないだろう。
どれくらいの時間身悶えていたのか、やがて、めりめりめりと硬い玉が出ていこうとして、身体を押し開く痛みを感じた。腹の中の卵は石のように重く、身体の中でごりごりと身を擦り合わせている。
もしも、女の喉の奥に吐き出した精子の数だけ卵は飲み込まなくてはいけないとしたら、それは、永遠と同じじゃないか。いつまでも終わりはしない。俺は、ついに、底の底まで行き着いてしまったんだ。帰る道はない。
その時、小さく白い稚魚が揺れながら浮いてくるのが水の向こうに滲んで見えた。嗚呼。産まれ出た地獄の魚に、命は、あるのだろうか。
地獄に雨が降っていた。静かにしとしとと。視界はどこまでも続くようでいて、どこかで途切れているはずだ。この世界は閉じている。そうだ。今まで生きてきた世界と違って。
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