2018
嫌がってるのがみたい
SMバーや緊縛イベント。どこへ行っても、私達が目にするのは、責め手に心酔する受け手と誰にでも礼儀正しい責め手の姿だ。性嗜好が社会的生活に影響を与えるような行為は認められず、そのために、一般的常識を逸脱するような行動も散見されることがない。はっきり言うと、バーなのにお酒を飲む方も少ない。男性は特に、節制した態度と抑制された性欲を求められているようで、一般男性よりも苦労ひとしきりなのである。
今、Mはかなり自由である。選ぶ権利があり、実際に選択肢がかなり許されている。行為を求めているのはM側であり、拒否権もMが持っているという認識が根付いている。受け取る機会が無い場合は、お金を払う方法もある。気をつけていれば、身の安全も保証された遊び場があり、危険の情報の共有も行き届いている。
何よりも、縄がSMを変えてしまった。縄だけを楽しむ人達の中には、サディストでもなく、マゾヒストでもなく、ただただ縄が面白く楽しく気持ちよく美しい・・・と、感じる人たちが大勢いるし、縄を習う場所はあくまでも練習の場所であり、危険とエロは限りなく排除されているようだ。恐怖は薄められ、深く埋められていて、私達はうっかりそれに遭遇するまでは、安心と安全を享受していると信じてしまうのだ。そんな場所で知り合った友人や同朋と会話する機会もたくさんあって、一部では「仲良しごっこ」と、非難されていても、楽しいのには間違いない。
私は、その中を回遊する。まだ、リアルの事を何も知らなかった時にネットを回遊していた時のように。
けれど、思い出してみて欲しい。あなたが最初に、自分は、なにか変だと気がついた時の事を。
私の場合は、小学校三年生の時に叔父の本棚の漫画の中に見つけた拷問シーンだった。女性が吊るされ、辱められ、苦しみ悶え、痛みに泣き、恐れおののくシーンだった。
だから、私の中には、どこまでも暗い闇が続いている。他の誰かは知らないけれど、私は自分が鬼畜な人非人だってことを知っている。あまりにも平和な、介護だの、子育てだの、治療だの、夫婦間の悩みだのの日常生活に浸かっていると、バランスが取れなくなってきて、テレビの中にある、作り物の監禁拷問シーンの悲鳴すらに拠り所を求めてしまったりしている。そんな時、日常の中に入り込んできた非日常の一瞬に、これを見てホッとしているのは、家族の中では、私一人だと思うと、ちょっと孤独だ。
一番近くにいるのに、他人には、決して見せてはならない秘密。悲鳴が聞きたい。さしだされるものだけでなく、奪い取りたい。泣きながら哀願させて、それでも尚引き裂きたい。そうです。私は、人が心底嫌がっていると、なぜか、嬉しくてほっとするんです。困ったものです。
あ、でも、大丈夫。あなたのこと、殺したりはしませんから。そこまでは、願っていませんから。
