2017
靴べら
それというのも、そもそも、私はスパンキングが好きなのだ。スパンキングというのは、教育的な目的のためにお仕置きとしてお尻を叩く行為をいう。もしくは、お仕置きのなんたるかみたいなどうでもいい論理を隠れ蓑にして、お尻を叩くという行為に対して性的に興奮する事をいうのである。
教室、もしくは家庭で行われるのが普通だった行為なので、叩く道具は教壇で教師が持つ細い棒のような籐鞭(ケイン)や海軍のボートのオールから発達してきたパドルというおしゃもじの大きくなったような道具以外は、ありとあらゆる身の周りにある叩けそうな日用品を使う。ヘアブラシや布団たたきや台所道具、そして靴べらも当然その代表選手のひとつである。
しかし、うちの夫はスーツを着ない職業なので、普段革靴を履かない。やってくる客もみんな革靴を履いていない。そのため、我が家の玄関には今まで長い靴べらが無かったのだ。
玄関の靴べらを見ると、ついつい、初めて一人でホテルに泊まった時、入口近くにあるクローゼットの扉を開いた時に、そこに木の靴べらと洋服のブラシを見つけた時の喜びを思い出す。私は、すごくはしゃいでそのふたつをテーブルの上に並べて写真を撮ったものだった。
それから、大阪から同じ趣味の友達が上京してきた時に、新幹線の発車までの時間つぶしにしゃれた丸の内のビルの店舗の壁に磨かれた靴べらを見つけた時のなんともいえない幸せな気分や値段を見ては溜息をつき、思い切って買ってしまおうかと店の前をふたり手を繋いでうろうろした時の、嬉しいような切ないような憧れと迷いを思い出す。
ところが、この靴べらという道具。お尻を叩くために出来たものではない。革靴を履く時に、踵の滑りをよくするりと格好良く靴を履くために存在しているのだ。だから、お尻を叩くとあっという間にお尻の勝利となり、靴べらは無残にパキリと折れてしまう。いや、もちろん他の道具だって、それぞれに髪を梳いたり、布団をふくらませたり、料理をかき混ぜたりする目的のために存在するのであって、お尻を叩くために作られたものじゃないけれど、それにしたって、靴べらはどうみたって華奢だ。
それなのに木の靴べらはあまりに高い。他の材料で細工が凝らしてあるものなどはもっと高い。買ったその日に終了宣言となりかねない道具に支払う値段ではない。
ホテルのクローゼットの中に見つけたからと言って、気軽に使おうものなら、なんといって言い訳すればいいのか分からない結果になる事は分かりきっている。だから、私たちは大抵の場合靴べらの隣にかかっていた洋服ブラシで我慢することになるのだ。
それでもやっぱり、靴べらは、あまりにも私達を誘惑する存在なのだろう。大抵の友達が果敢に挑戦し、そして、何本も叩き折ってしまっている。その中にはもちろん百円ショップのプラスチックの靴べらも入っているのだけれど、ちゃんとしたいい値段のものも混じっていて、まあ、百円だろうと何万円だろうと同じ結果をみているのだった。
かように靴べらというものはお仕置きには適していない。けれど、それでも、私は夢を見てしまう。玄関で靴を履くために上がり框に座り、明らかに使うのを忘れられているかわいそうな靴べらを眺めながら。それにそっとふれながら。それがたとえプラスチックの安い道具だとしても、その夢はけっして値段では贖えるものではないことは確かなのだ。

けれど、やっぱり大抵の人にとって、靴べらは靴を履く時に踵を入れやすくするための道具にすぎないのである。
