2010
痛み
身体の中に感覚の器がある
底は深く 暗い
覗きこんでも何も見えない
縁がどこにあるのかも分からない
鞭の最初は その底へ届かない
強く振って痛みを遠くへ放り投げるか
回数を重ねてだんだん深くまで響かせるか
底へ届くまでは 痛みは純粋な痛み
鋭く
切り裂き
痺れる
身体の中へ
輪を描いて拡がっていく
やがて、叩かれた場所が熱く燃え
耐え難かったはずの痛みが
鈍く麻痺したように変わってくる
そして、見えなかった底がせりあがる
鋭く打てば 一打ずつが底へ当たる
広い面の痛打は 水面に広がる輪のように
波になり よせていく
響きあう 身体の中で
湧き上がってくる 突き抜ける快感が
打たれた痛みが駆け抜けた後を
快感が追いかけいて行く
輪唱のように
響きあう 繰り返し また揺り戻す
何度も 何度も くるめく世界はカオスのよう
のけぞり しがみつく
重なる二つの違う感覚
二つの重なりのずれはだんだんと少なくなっていく
どこまで行っても違うものなのに
月が映し出す影のように
後ろをついてくる
一打の次の一打 時が追いかける快感を引きのばす
間を開けて 充分に味あうようにすると
重なり会う音のように
痛みと余韻が響きあう
強く打てば 強く響く
もう痛くない?
いややっぱり痛い
あまりにもすべてが混じりあい 感じる事を分析できない
遠くで鐘が鳴る
せりあがった底はすっかりと姿を現し
ただ触れるだけのその手の動きでさえ
身体は震え 反応する
止まらない
画像
さあ 強く
私が理屈を思い出さないように
地面どこにあるか探さないように
もう遠慮はいらない 器は姿を現した
私の底は白日のもとに
先日から、痛みについて考えていたものの、うまく文章に表現できなくて詩になってしまいました。(汗)
私は、自分が、本当の意味では、痛いもの好きの人だとは思って無くて、私にとっては痛みは愛撫の一つなんじゃないかなと思っています。だから、痛みを快感と等価にすることはできない。おまけにまだ自分がMだっていう確信すらない。ヲタなので、カテゴリ訳や線引きに拘っていますので、自分が自分の引いた線からはみ出してるのがよく分ってしまうんです。
ただ、不思議な事に一番記憶に残っているのは、快感とは全く無縁の五発の鞭だったりします。喜びがないからこそ、それを受ける相手とのつながりが深くなるのって不思議ですけどね。その時になにを考えていたとか、何を感じていたとか、そんな理屈が何もない。ただ怖くて、痛いってだけ。
ひとつ、ふたつ、みっつ・・・って数を数えて、いつつ、まで数えなきゃいけなかったのに、5番目の鞭の後にぽーーーーんと、意識が放物線を描いてとんで行きました。私はそれを茫然と見つめていて、その視線の先にようやく相手が見えた時に、もう一つ数を数えなきゃいけなかったんだと思いだして「いつつ」って、言いました。
痛みで「逝く」って、感覚はなんとなく分かるんですが、その時に起こった事は何だったのか言葉に綴る事が難しい。自分でもそれが何なのか分からないままです。でも、もしかしたら、あのために私はSMをしてるのかもしれない・・・と、考えたりしています。
痛い事は絶対向いて無いと思った日もあったって事は、あれも苦手、これも苦手、これも感じない、あれも感じないの私ですが、違うものが見えて来る日も来るのかなぁ・・・と、思います。一度や二度試しただけじゃ、人間、回路は形成されないものなんだな・・と。
