2009
狭間に・・・1
焦がれていたものが目の前にあって、自分が手を伸ばせば掴めるかもしれない。そう、思うと、今まで見ないようにしてきた自分の気持ちや、思いこもうとしていた事実が嘘のように思えてきてしまう。同じ事でも、表から見るのと、裏から見るのとは違うように。同じ出来事も、幸せと思う事も出来、不幸だと思う事も出来る。一杯のコップの水でも満ち足りて、身体じゅうに満ちた水に感謝する事が出来る事もあるのに、一杯では満足できずに泣いてしまったりもする。
自分が、気が向いた時に、水を手渡すのは、誰でも出来るが、常に求められるとうっとおしい。そうして、すれ違いが始まり、不平不満が積み重なり、それを削除する事は、難しくなる。何もかもひっくり返して、自分を傷めつける以外に、逃れられないような気がする。
そんな日常の切れ目に、あの人に会った。ある白く煙る地下室にある、小さなバー。カウンターに一個とばしに座って、マスターを介して話をするような、そんなバー。
耳元で囁かれたら、どんなにすてきだろう・・・と、思うような低くて甘い声をしている人だった。時々、ちらり、と、こっちを見る以外は、素知らぬ顔をしてグラスを傾けている。それでいて、私の言葉をしっかりと聞いていて、ちゃんとうなずいたり、問いかけたりしてくれた。
行きずりの人。私の事を何も知らない人。私のために何もしなくていい人。私自身が、何も気にしなくていい人。ちょっとだけ、心の中を打ち明けて、ちょっとだけ、寂しいと、言ってみる。ちょっとだけ、うなずいてもらって満足し、ちょっとだけ、いや増した寂しさを噛みしめた。
誰かの優しさの向こうに、これが、あの人だったらどんなにか幸せだろう・・・と、思うと、胸を締め付けられるように苦しい。
何でもない振りをして、言葉を重ねるのがたまらなくなって来て、私は席を立った。家に帰って、一人で泣こう。布団にくるまって、自分を憐れもう。ぼんやりと、欲望を反芻し、そのまま穴に落ちて行くのに任せよう。
彼の後ろを通った時、くるりと椅子が回わった。立ち上がった今日初めて会った人が、私の腕を掴んだ。驚いて、眼を瞠はる。そんな事をする人には思えなかったので、何の反応も出来ず、私は彼の顔と、掴まれた腕を、交互に見つめた。
一瞬強く引いた後に、彼は私の腕を握ったまま、私の瞳を覗きこんできた。私は、ぽかんとしたまま、彼の顔を見つめた。
どうして?どうして分かったんだろう。私の考えている事が。どうして分かるんだろう。彼の考える事が・・・。
彼は、ちょっとだけ間をおいて、私の腕を強く握りしめた。強い圧迫感と、痛みと、かすかな恐怖と、安堵。私の足りないものを、簡単に見抜いた。私が、欲しがっている事を確認した。
そして、誰にも分からないように、それを、埋めてくれようとしている。見抜かれた恥ずかしさよりも、圧倒的な安堵感に任せて、私の腕をつかんでいる彼の腕の引くに任せた。暗いバーの、誰にも見えるカウンターの前で、それなのに、誰の視線にも止まらず。駆け抜ける鈍い痛みに、身を任せた。
「大丈夫。泣かないで。平気だから。」
想像した通り。
今、初めて、耳元で囁く彼の言葉に混じる吐息を、肌に感じながら、私は、泣いてもいいのだと分かった。大丈夫じゃなく、平気でもない。そして、泣きそうになっている私を、彼はそのまま抱きよせた。始まりの夜に・・・私は、闇がどんなに甘いかを知った。
続く
